2011年6月19日日曜日

緑の家

バルガス=リョサ 著  木村榮一 訳   岩波文庫

これまた長篇。ええ、好きなんですわ。
ただ、長い小説って、まとまった時間が取れることがわかってないと、
読む気がしませんね。来週は札幌往復(8時間強)がある、とか。特
に予定の無い三連休がある、とか。これの場合も、GWにオランダに
行くっつーんで。釧路~羽田~成田~香港~アムステルダムの経路
で移動時間がしこたまあるっつーんで。やったーっつって、喜び勇ん
で持って行ったわけです。

これが大変に複雑な構成の小説で、時系列を異にする5つのストーリ
ーがこれでもかと絡み合っている。それも、章ごとにストーリーが入れ
替わるなら普通だが、地の文の途中で、段落も改めずにあっちから
こっちと行ったり来たりする乱暴さで、もうこちら(読者)が混乱するの
は当たり前・折込み済みなのである。それでも読ませてしまうこと自体
が売りなわけです。まあジクソーパズルのバラバラの断片を見せられ
て、それを著者が鮮やかに組み合わせていくのを眺めるような感じと
いえばいいか。おぼろげな絵が見えてくるまで読むのに、けっこう根気
が要るのは想像がつくかと思う。

かつて、六十年代、ラテン・アメリカ文学の一大ブームがあったそうな、
と我々若者は伝え聞いておるわけですが、『百年の孤独』(ガルシア=
マルケス)『石蹴り遊び』(コルタサル)など錚々たる面々とともにその一
翼を担ったのが、まさに本書である(らしい)。私はそれ程ラテン・アメリカ
の小説を読んでるわけではないが、ちょっとかじった者としてささやかな
意見を述べると、その魅力とは、
①まず物語に独特の「柄の大きさ」があること。小さくまとまろうとせず、
風呂敷はなるべく大きく広げる。
②そして語り口、叙述形式が変わってるものが多い。ラテン・アメリカ文学
の象徴である『百年の孤独』が典型例だが、あれなんて、なんだこりゃと
思いながらも、ついつい熱中してしまう。
③極めつけに、例の「マジック・リアリズム」という言葉。これはまあ、要す
るに、物語の随所で、ちょっと不思議なことが起こるわけである。ある偉大
な人物が死んだとき、死体に蝶が群がって空に運んでいったとか、そうい
う類の話。そのような非現実の出来事の描写を、現実の出来事の描写と
何ら変わらぬ地平でおこなうので、一種異様な、いびつな物語になる。
この三つの特徴は、大江健三郎と中上健次の書く世界にピッタリと当ては
まる。中上の『千年の愉楽』は、ガルシア=マルケスが百年なら俺は千年
だぜってことで「千年」になったとかならないとか。まあそれだけ、目に見え
る部分でも見えない部分でも影響を受けている、ということであろう。私は
大江さんの小説をけっこう読み慣れていたので、ラテン・アメリカの世界に
もすんなり入れたのかな、とも思う。

リョサで最初に読んだ『楽園への道』が飛び上がるぐらい面白かったので、
どうしても比べまいとしても比べてしまうわけだが、やっぱり『楽園~』の方
が好きだったなぁ。確かに『緑の家』でやってることも離れ業ではあるんだ
けど。

0 件のコメント:

コメントを投稿